燃え尽きる暇もない--完成することと、創造し続けること--


数年前から、ずっと頭の片隅にあったものがある。
本を書こうと思っていた。
日々の診療で考えてきたこと。医師として何を信じ、何を疑い、何を大切にしてきたのか。
それらを一冊の本にまとめたかった。
もっとも、私は物書きではない。
文章を書くことと、本をつくることは、まるで違う。
構成を考え、書き直し、削り、また書き足す。何が正解なのかもわからないまま、手探りで進めてきた。
そして、ようやく一冊の本が形になった。
『その手xxx』。
現在、出版に向けた最終準備を進めている。
我ながら、よくここまでやったと思う。
ところが、構成を終えた途端、どういうわけか興味が薄れてしまった。
燃え尽き症候群というやつだろうか。
あれほど時間をかけ、考え抜いてきたものなのに、完成した途端、どこか他人事になってしまったのである。
あとは誰かがやってくれないものか。
そんなことまで考えていた。
興味が薄れて、数日もしないうちに、まったく別の本のアイデアが浮かんできた。
今度は、もっと一般の人に向けた本がいい。
手が痛い。
なぜ痛いのか。
手の中で何が起きているのか。
それを、医学の知識がまったくない人でも理解できるように説明する。
極端に言えば、小学生でもわかる本だ。
難しい言葉は使わない。文字は少なく、イラストを多くする。
そう考え始めたら、これが実に面白い。
一冊目の出版すら終わっていないというのに、もう次の本の構想に夢中になっている。
困ったものである。
しかし、ここで一つ疑問が生まれた。
私は、本を完成させたかったのか。それとも、本をつくっていたかったのか。
この二つは似ているようで、まるで違う。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人間の活動について興味深い区別をしている。
「ポイエーシス」と「プラクシス」。
前者は、何かを生み出すための制作。後者は、行為そのものに目的がある実践である。
家を建てることは、家という完成品を目的とする。
一方、立派に生きるという行為には、それとは別の完成品が必要なわけではない。
私はこの話を知って、少々考えさせられた。
本を書くことは、明らかに制作である。
完成した本という成果物がある。
しかし、私が夢中になっていたのは、完成品を手にすることよりも、形のなかったものが少しずつ形になっていく過程だったのではないか。
つまり、制作をしていたはずなのに、制作するという行為そのものを楽しんでいたのである。
そして完成すると、その楽しみは一度終わる。
だから、次の何かをつくりたくなる。
そう考えると、燃え尽きたという表現は、少し違う気がしてきた。
単に、一つの仕事が終わっただけなのだ。
そして、次の仕事が面白くなった。
それだけの話なのかもしれない。
思えば、医療についても似たようなところがある。
私は手の外科医として、長年、手の痛みと向き合ってきた。
教科書に書かれていることを否定するつもりはない。
ただ、教科書に書かれていることだけで、目の前の患者の痛みが解決するとは限らない。
それなら、どうすればよいのか。
もっとよい方法はないのか。
既存の治療を組み合わせることはできないのか。
身体への負担をもっと小さくできないのか。
そんなことを考えながら、自分なりに治療を組み立ててきた。
もちろん、目の前の患者に対する責任は変わらない。
診療をおろそかにするつもりもない。
ただ、一つ問題がある。
私は、自分の治療を安心して任せられる医師を、残念ながらそう多くは知らない。
これは他の医師を一律に否定しているわけではない。
診断から治療の選択、実際の手技、治療後の評価まで、自分が積み上げてきたものを、同じように実践してもらうことがいかに難しいかを知っているということだ。
しかし、いつまでもそれでよいとは思っていない。
私の診療を受けるために、遠方から札幌まで足を運ぶ患者がいる。
ありがたいことである。
だが、本来ならば、そんな必要はない方がいい。
北海道の地方都市でも、九州でも、離島でも。
どこに住んでいても、同じ水準の診断と治療が受けられる。
それが理想だろう。
私が当たり前に行っていることを、ほかの多くの医師も当たり前にできる。
そして、いずれ私より優れた方法が生まれる。
それでいい。
医療とは、そうやって進歩していくものだと思っている。
ここで、もう一つの問いが生まれる。
自分にしかできないことを、誰にでもできるようにする。それは、自分自身の価値を失うことなのだろうか。
私は、そうは思わない。
むしろ逆である。
自分にしかできないことがあるというのは、確かに一つの価値だ。
だが、その価値が自分一人の中に閉じ込められている限り、できることには限界がある。
優れた技術が広く普及すれば、その技術を必要とする患者は、特定の医師を探して全国を移動する必要がなくなる。
そして、かつて特別だった治療が、当たり前の治療になっていく。
それは技術の価値が失われたのではない。
技術が本来あるべき場所に到達した、ということではないだろうか。
ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』で、「自己超克」という思想を語っている。
人間は、自分が到達したところに安住するだけの存在ではない。
自分自身を乗り越え、さらに別の可能性へ向かうことができる。
私はこの思想が好きである。
自分がつくり上げたものを、いつまでも守り続ける必要はない。
本当に価値のあるものなら、自分の手を離れても残っていくだろう。
そして、自分のつくったものを、次の誰かが乗り越えてくれればいい。
医療に限らず、技術や知識の進歩とは、そういうものではないかと思っている。
ただし、理想を語ることと、その理想を自分が実現したいと思うことは、また別の話である。
ここが少々ややこしい。
では、医師を育てればいいではないか。
教育制度をつくればいい。
組織を大きくし、治療法を普及させればいい。
理屈ではその通りである。
おそらく、それは非常に意義のある仕事だ。
だが、それを自分が一生かけてやりたいのかと問われると、どうも違う。
教育制度をつくり、人を育て、組織を運営し、治療の質を管理する。
立派な仕事だと思う。思うには思うが、、、
ただ、私にとって、それが最も面白い仕事かと言われれば、そうではない。
正しいと思うことと、自分がやりたいことは、必ずしも一致しない。
この区別は、案外大切なのではないかと思う。
(その人が思う正しい方向に人を導こうとする人いますよねー笑)
世の中には、何かを成し遂げた人間に対して、次の役割を期待する空気がある。
技術を確立したのなら、後進を育てるべきだ。
経験を積んだのなら、組織を率いるべきだ。
成功したのなら、さらに大きな成功を目指すべきだ。
もちろん、それを望む人がいてもいい。
しかし、なぜ全員がそうしなければならないのだろう。
私は、組織を大きくすることに、興味がない。
弟子を何十人も抱えたいわけでもない。
めんどくさい笑。
まして、自分の名前を後世に残したいという願望も、ない。
ただ、自分の頭の中に浮かんだものを、実際に形にしてみたいのである。
治療法を考えることもそうだった。
クリニックをつくることもそうだった。
本を書くことも、同じなのだろう。
まだ存在しないものが、頭の中にある。
最初は曖昧で、輪郭すらはっきりしない。
それが考え続けるうちに、少しずつ形を持ち始める。
ある日、頭の中にしかなかったものが、現実に存在するものになる。
その瞬間が、たまらなく面白い。
そして完成すると、また別の何かが気になり始める。
こう考えると、人間の幸福についても、一つの疑問が浮かんでくる。
人は、何かを手に入れることで満足するのか。それとも、何かに向かっているときに幸福を感じるのか。
おそらく、答えは人によって違う。
完成した作品を眺めながら、長く満足できる人もいるだろう。
一つの事業を育て続けることに、生涯を費やせる人もいる。
それはそれで、素晴らしいことだと思う。
ただ、私は少し違うらしい。
完成したものを眺めているより、次に何をつくろうかと考えている方が面白い。
つまり、私が求めているのは、完成した状態そのものではないのだろう。
何かが生まれようとしている、あの状態なのである。
だとすれば、完成するたびに興味が薄れることを、悲観する必要もない。
燃え尽きたのではない。
次の興味へと移っただけなのだ。
そして、ここまで考えて、もう一つ気づいた。
私はこれまで、医師として何を成し遂げるかを考えてきた。
しかし、これからは少し違うのかもしれない。
医師としての責任を果たすことと、医師という肩書に自分の人生を閉じ込めることは、同じではない。
診療は続ける。
目の前の患者に対して、できる限りの治療を提供する。
その一方で、本を書いてもいい。
まったく別のことを始めてもいい。
自分が面白いと思ったものを、形にしていけばいい。
そして、いつか自分の治療が特別なものではなくなり、全国どこでも当たり前に受けられるようになったなら。
それは、きっと喜ばしいことである。
そのとき私は、また別の何かを考えているのだろう。
さて
次の本は『手の謎解き』とでも名付けようか。
まだ一冊目も出版されていないというのに。
我ながら、まったく落ち着きがない笑。
だが、最近はそれでいいと思っている。
人生の目的が、何かを完成させることだけだとしたら、完成した瞬間に目的を失ってしまう。
しかし、新しいものを生み出すこと自体に喜びを見いだせるのなら、話は違う。
何かが終われば、また何かが始まる。
終わりを惜しむ必要もなければ、次を急ぐ必要もない。
面白いと思うものがあれば、ただ形にしてみればいい。
完成とは、創造の終わりではない。次の創造が始まるための、ひとつの区切りなのだ。
どうやら私は、燃え尽きていたのではなかったらしい。
単に、次のことを考えたくなっていただけなのである。
まあ、そういう人生も悪くない。


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