ドクターの小噺― 腱鞘炎を「細胞の目線」から考えてみる ―


ここからは少しマニアックな小噺です。興味のある方だけ、お付き合いください。
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腱鞘炎を「炎症」ではなく「修復環境の乱れ」として考える
腱は、本来、周囲の組織の中を滑らかに滑走する組織です。
指を曲げたり伸ばしたりするたびに、腱には張力がかかり、腱鞘(pulley)との間には多少の摩擦や圧迫が生じています。
しかし、正常な状態ではそれ自体が悪いわけではありません。
むしろ腱細胞にとって適度なmechanical stressは、「自分は腱として働いている」という情報でもあり、collagenをはじめとするECM(細胞外マトリックス)を適切に維持・再構築するために必要な刺激です。
問題になるのは、何らかのきっかけによって、この正常な滑走が崩れたときです。
組織が腫れる。
腱や腱鞘が少し厚くなる。
組織同士の滑りが悪くなる。
局所的に圧迫される場所ができる。
すると、それまで「スルッ」と滑っていた腱が、同じ動作をしているにもかかわらず、「ギシッ」と擦れるようになります。
つまり問題は、「手を使ったこと」そのものではなく、
通常の運動が、異常な摩擦・圧迫・剪断力へ変換されるようになったこと
だと考えます。
異常な摩擦が続くと、細胞が傷つく
滑走の悪い状態で腱を繰り返し動かすと、tenocyte(腱細胞)や腱鞘・pulleyを構成している細胞、さらに周囲のECMに微細な損傷が起こります。
細胞膜が傷ついたり、ミトコンドリアがストレスを受けたり、collagenやproteoglycanなどのECMが壊れたりします。
すると傷ついた細胞やECMから、
DAMPs(damage-associated molecular patterns)
と呼ばれる「自分の組織が壊れました」という警報信号が周囲へ放出されます。
HMGB1などもその代表です。
患者さんが診察の時に聞く「老廃物」という言葉は、この段階で生じている
壊れた細胞の断片、傷んだECMの断片、炎症に伴って増えたさまざまな物質
をまとめてイメージしてもらう言葉として考えることができます。
つまり局所では単に「炎症している」のではなく、
組織が傷つき、その後始末を必要としている状態
が生まれているわけです。
そこでマクロファージがやってくる
DAMPsなどの信号を察知すると、マクロファージが働き始めます。
マクロファージは「炎症を起こす悪者」ではありません。
むしろ最初の仕事は、掃除です。
壊れた細胞を貪食する。
傷んだECMの断片を片づける。
周囲にサイトカインを放出する。
さらにfibroblastや血管系の細胞などへ、
「ここを修理してください」
という情報を伝える。
つまりマクロファージは、
清掃員であり、消防隊であり、工事現場の監督でもある
と考えると分かりやすいと思います。
この段階で起こる炎症は、本来は治癒のために必要な反応です。
掃除が終わると、修理が始まる
壊れた部分が片づけられると、次にrepair phaseへ入ります。
fibroblastやtenocyteが働き、
collagen、proteoglycanなどのECMを作り直します。
TGF-βなどのsignalも関与して、必要に応じてfibroblastはより修復能力の高いmyofibroblastへ変化します。
ここで正常なら、
損傷 → 炎症 → 清掃 → 修復 → remodeling → 終了
となります。
古い組織を壊し、新しい組織を作り、その後、余分なものを取り除いて構造を整える。
これが正常な組織修復です。
腱鞘炎では「修理が終わらない」と考える
ところが、滑走環境が悪いままだとどうなるでしょう。
せっかく修理した場所を、指を動かすたびにまた擦ってしまいます。
すると再びmicro-damageが起きます。
またDAMPsが出る。
またマクロファージが呼ばれる。
また掃除する。
またfibroblastが働く。
またcollagenを作る。
この状態が続くと、
本来は一時的であるはずの修復反応が、いつまでも終わらなくなります。
するとECMのturnoverが乱れます。
「作る量」と「壊して片づける量」のバランスが崩れ、
collagenなどが徐々に蓄積していきます。
さらにmyofibroblastによる収縮や線維化が加われば、組織は厚く、硬くなります。
長期間にわたって圧迫や剪断力が加わると、fibrocartilage、chondroid metaplasiaと呼ばれるような、軟骨に似た組織への変化まで起こり得ます。
すると「治そうとした結果、さらに滑らなくなる」
ここが非常に面白いところです。
体は壊そうとしているのではありません。
体は一生懸命、治そうとしている。
ところが修理が何度も繰り返されることで、
腱が厚くなる。
pulleyが厚くなる。
ECMが増える。
組織が硬くなる。
滑走面が不均一になる。
その結果、
さらに滑りにくくなる。
そしてまた擦れる。
つまり、
異常滑走→ micro-damage→ DAMPs→ macrophage→ repair→ ECM増加・線維化→ 組織肥厚→ さらに異常滑走
というpositive feedbackが成立します。
腱鞘炎をこのように考えると、
「炎症が治らない病気」
というより、
「修復を繰り返しているのに、修復環境そのものが改善しないため、工事が終わらない病気」
と表現した方が分かりやすくなります。
では、ハイドロリリースをどう考えるか
ここでハイドロリリースを、
「炎症を抑えるための注射」
とは少し違う視点で考えます。
ハイドロリリースで液体を入れることによって、組織と組織の間を物理的に広げる。
癒着したような部分を離す。
組織間の動きを作る。
局所のfluid environmentを変える。
そして、そこに存在していた細胞断片、ECM断片、炎症関連物質などが、その場に滞留し続けにくい環境を作る。
患者さん向けには、
「たまっている老廃物を流す」
という表現に転換しています。
重要なのは、単に「ゴミを洗い流す」だけではありません。
ハイドロリリースによって、
組織間のスペースを作り、滑走を改善し、局所の環境そのものを変える
と考えるわけです。
それにより、マクロファージが仕事をしやすい環境を作る
マクロファージは、本来非常に優秀な細胞です。
壊れたものを食べる。
不要になったものを処理する。
炎症を開始する。
必要な修復細胞を呼ぶ。
そして修復が進めば、今度は炎症を終わらせる側にも回る。
つまり人間がすべてを外から治してやらなくても、
身体には自分で掃除して、自分で修復するシステムが最初から備わっています。
しかし組織が狭く、滑らず、壊れたものがその場所に滞留し、動かすたびにまた新しい損傷が起きている環境では、マクロファージもいつまでも「事故処理」を続けなければなりません。
そこでハイドロリリースを、
マクロファージそのものを操作する治療ではなく、マクロファージが本来の仕事をしやすい環境を作る治療
と考えます。
水を入れる。
組織を離す。
滑りを作る。
不要になったものがその場に滞留しにくくする。
新しいdamage signalが生じにくい環境に変える。
するとマクロファージは、
「また壊れた!」
という仕事ばかりを繰り返さず、
本来の
清掃 → 修復 → 炎症収束
という流れへ進みやすくなる。
そんなイメージです。
そして、なぜ行動制限をしないのか
ここまで考えると、
「擦れて悪くなったのなら、動かさない方がよいのでは?」
という疑問が出てきます。
しかし大切なのは、
movementそのものと、異常なmechanical stressは同じではない
ということです。
正常な腱は、動くことを前提として作られています。
腱を動かせば、tenocyteには張力や圧力などのmechanical signalが入ります。
その刺激をもとに細胞は、
「どちらの方向にcollagenを並べればよいか」
「どのくらいECMを作ればよいか」
「どのくらい古いECMを分解すればよいか」
を調節していきます。
これがmechano-transductionとremodelingです。
つまり身体は、
実際に使われながら、その使われ方に合わせて組織を作り直している
わけです。
ハイドロリリース後に動かす意味
そこで、
ハイドロリリースで滑走環境を変える。
↓
その状態で普通に手を使う。
↓
改善した組織間を何度も滑走させる。
↓
局所に生理的なmechanical signalが入る。
↓
tenocyteやfibroblastが、その新しい環境に合わせてECMをremodelingする。
という考え方になります。
これは単なる「安静にしなくてもいい」という話ではありません。
むしろ、
改善した滑走環境を身体に覚えさせるために、普通に動かす
という考え方です。
組織を離したのに、その後まったく動かさなければ、再び同じところで組織同士が固まってしまう可能性があります。
一方、組織間を滑らせ続ければ、
「ここは動く場所である」
というmechanical informationを細胞に与え続けることになります。
全体を一つの流れとして考える
腱鞘炎は、
異常な滑走環境
から始まります。
その中で腱を動かすと、
局所的な摩擦・圧迫・剪断力
が発生します。
それによって、
tenocyte・ECMがmicro-damageを受けます。
すると、
DAMPsなどのdamage signal
が出ます。
それを察知して、
macrophage
が働き、
マクロファージは壊れたものを掃除し、fibroblastやtenocyteに修復を命令します。
その結果、
collagen・proteoglycanなどのECM
が作られます。
しかし滑走不良が残っていれば、再び同じ場所が壊れ、
修復が繰り返され、
fibrosis、ECM蓄積、組織肥厚
が進み、
さらに滑走が悪くなります。
そこで、
ハイドロリリース
によって組織間の環境を変えます。
液体でスペースを作り
滑走を改善し
局所にたまっている不要なものを流れやすくします。
マクロファージが「掃除と修復」という本来の仕事をしやすい環境を作ります。
そして、
行動制限をせず、普通に動かしてもらいます。
改善した組織間を実際に滑走させることで、生理的なmechanical signalを与え続けるわけです。
その環境に合わせて、tenocyte、fibroblast、macrophageなどが協調し、
ECMを作り直し、不要なものを片づけ、組織を再構築していきます。
このように考えると、
ハイドロリリースは、
「薬で炎症を止める治療」ではなく、体が自分で治るための局所環境を整える治療
という位置づけになります。
そして「行動制限なし」は、
治療後の付け足しではなく、その新しい環境の中で正常な滑走とremodelingを続けさせるための、治療の一部
と考えることができます。
一番大事な考え方
このモデルの主役は薬ではありません。
主役は、
tenocyte
macrophage
fibroblast
ECM
mechanical environment
という、もともと身体に備わっている修復システムです。
ハイドロリリースが行うのは、
身体を直接「治す」ことではなく、身体が自分で掃除し、自分で修復し、自分で正常な組織へ戻っていきやすい環境を作ることです。
そして、
その環境で実際に動かすことによって、正常な滑走を再び身体に学習させます。
こう考えると、
ハイドロリリース+行動制限なし
という治療方針は、
「洗う」
「滑らせる」
「掃除させる」
「動かす」
「作り直す」
という一連の細胞生理学的なストーリーとして捉えることができます。
以上、ドクターの小噺でした。



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